春、夏、秋、冬の四部作からなる『四季』。その中の『夏 Red Summer』を読んだので感想を語っていく。名作『すべてがFになる』の舞台を整える、前作ファンにはたまらない至高の一冊だ。
目次
感想
Vシリーズの瀬在丸紅子やら他のシリーズも読んでいる人にはたまらない一冊だった。加えて『すべてがFになる』の前日譚的な要素もあり、さらに四季の生い立ちも追える欲張りセット。
ちゃんと『すべてがFになる』に繋がるがすごいよなぁ…。作者の頭の中どうなってるんだろ。
『四季 夏』で起きることは、『すべてがFになる』で了解している。つまりそこへ至る展開と、天才の思考、天才と凡人の会話が本作の面白い所だった。
──『すべてがFになる』の謎が明かされる
『すべてがFになる』で新藤は四季に殺される。そして新藤は四季をかばって真実をつげないまま死んでしまうわけだが、なぜ新藤は四季のためにそこまでできるのか正直わからなかった。また、四季が両親を殺した動機もあかされていなかった。
今までモヤがかかっていた"真実"が四季の思考を通して明らかになる様子は、これから起こる事実が分かっていてもわくわくする。
確かに"真実"は明らかになるものの、それと受け入れられるかは別問題。四季の考える理屈は分かる。しかし受け入れることはできない。そこが天才と凡人の差なんだよなぁ。
『すべてがFになる』では、四季のパソコンにメッセージが残されていた。P176-177のあたりだ。真賀田四季、栗本其志雄、佐々木栖麻の四季の別人格を合わせた三人の名前が記されている。
『春』では栗本其志雄が登場し、『夏』では新たな人格の森川須磨が登場した。何故、森川須磨から佐々木栖麻へ名前が変わってしまったのか?それ自体は謎だ。
しかし、 森川須磨の人格がなぜ作られたのか?その答えは何となく想像できる。森川須磨が現れたタイミングは、四季が性交渉を行う直前だった。つまりそれは四季にとっては珍しい"わからないこと"だったわけだ。知識だけではどうしようもない事を解決するために森川須磨の人格が形成されたのではないだろうか。
今まで身の回りの世話をしていて四季との距離が近かった、そしてなにより新藤のことをよく知っている。そのため彼女の人格が形成するのが一番の近道だったのだろう。
──真賀田 四季について
森博嗣の作品において、四季ほど魅力に溢れる登場人物はいない。天才の思考を追うだけでもこの作品を読む価値がある。一つ、私に突き刺さった四季の思考を引用しておく。
なにもインプットしない。
なにもアウトプットしない。
単なる燃焼だけの生命がほとんどだ。
抵抗もせず、
攻撃もしない。
流れるままに生きる生命がほとんどだ。
自分たちの創り上げたものにも無関心。
それどころか、自分は歴史には無関係だと信じている。
戦争を嫌い、
犯罪を嫌い、
自分には何もできない、
自分はこんな人間です、と諦める。
食べることだけの喜びを見出しているようにさえ見える生命。
酸化するだけのプログラム。
針のない時計、アイドリング中の車、スイッチを消し忘れた機械、水車、風車、風見鶏、すなわち、最初はなにかしようとしたはずなのに、なにもしなくても生きていけることを知ってしまった生命たち。
エネルギィを浪費するだけの仕組み。
そんな膨大な無駄を抱えてる、この社会。
(引用:四季 夏 P235-236/森博嗣)
自分がこの言葉通りなんだよなぁ…。
受け入れなくたくない、物事の真理を突きつけられる。私も多くの登場人物と同じで、四季が怖いんだ。すべてが見透かされそうで、自分の生きる意味をすべて否定されそうで。しかし四季の思考に触れたい。それは怖いとわかっていてもついホラー映画に手を出してしまうような心理と似たものなのかな。
四季は何にもしばられない。この人間社会に洗脳されていないから。人間が長年作り上げたルール、エゴにしばられない。それが本当はおかしいと分かっているから。
最後に
S&MシリーズやVシリーズを読んだうえでの構成とは分かっていたが、読破しないまま読んでしまったことにちょっとの後悔はあるが、後悔を上回る面白さであった。
まさかここでS&MシリーズとVシリーズの繋がりが見えるとは思わなかった。紅子が出てきた時点で四季を通じて、シリーズ同士が繋がってるかと思いきや紅子と犀川がなぁ……。完全に意表をつかれた。
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