FGかふぇ

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『天冥の標Ⅸ〈ヒトであるヒトとないヒトと〉』の感想:さぁ舞台は整った【小川一水】



「大きな構図の、外側のさらに大きな構図がわかったところで、いちばん小さな手元の問題が消えてなくなる訳じゃないの。ねえ、知ってるかしら?痛みや悲しみはそれが重なると麻痺してしまうけれど、責任というものは、背負えば背負っただけ、無限に重く感じていくものなのよ。

(引用:天冥の標Ⅸ part2 P100)



天冥の標シリーズ第9弾、『天冥の標Ⅸ〈ヒトであるヒトとないヒトと〉』の感想を語っていく。ネタバレありなので未読の方はご注意を。

前回の感想はコチラ
【『天冥の標Ⅷ〈ジャイアント・アーク〉』の感想】


目次

感想

ついに全10巻のうちの、9巻まで到達してしまった……。物語は佳境を迎えており、舞台は整い、役者は揃い、あとは結末を見るばかりって……感じ。


天冥の標シリーズに手を出してはや5ヶ月。シリーズを見届けたい気持ちと、読み終えたくない気持ち、相反する想いがせめぎあっている。


1巻から登場人物自体はあまり増えていないが、2〜8巻のこれまでの物語の軌跡を考えると、1巻と9巻は時系列的には全然変わらないのに関わらず、登場人物たちの歴史、背負っているものを知ってしまった今、物語から受ける重厚感がまるで違う。


以前の感想でも書いたかもしれないが、シンプルに時系列順に物語が進んでいくのではなく、はじめに1巻のようにはるか未来を描き、そこから過去の出来事を追っていく……。2巻の〈救世群〉編ではなく、この1巻の〈メニー・メニー・シープ〉編を先に描いていることが天冥の標の肝のような気がするし、1巻で散りばめられた伏線がその後の巻でジリジリと回収されていく様子がたまらなく面白い。よくこの構成ができたなぁと改めて思う。


──「ヒトとはなんだ?」

サブタイトルである〈ヒトであるヒトとないヒトと〉。謎掛けのようで興味をひかれるものだが、part2の半ば、エランカとラゴスの会話でこの核心に触れる部分があった。

「──しかし、ヒトとはなんだ?」
エランカは答えない。彼がいま答えを求めている相手は、自分ではない。
「植民地人、《海の一統》、《救世群》それに、カヨやフェオドールや、ロイズ社団のロボットたちもいたな。また今では、太陽系艦隊などという者たちも近づいている。これらみなヒトであり、ヒトの申し子たちだ。しかしその辺縁に向かうほど、もともとのヒト──二足歩行する知能の高い地球に発する生物の姿からは、隔たっていく。定義づけは難しくなり、曖昧になる。考えを推し進めれば、ヒトの被造物である俺たち自身もヒトだということになり、論理は自己言及の渦に呑みこまれてしまう。それは避けるにしても、俺たちは、自分を何に支配させるのかという思考を通じて、ヒトとはなんであるかを俺たちが規定できるかもしれないという着想にまで行きついたんだ

(引用:天冥の標Ⅸ part2 P233)


本当はエランカとラゴスのやりとり全文を引用したいくらいだが、長すぎてしまうので一部だけ(これでも長いが)。



大雑把に言えば、
《恋人たち》はヒトに支配される存在であり、そう設計されている→実際これまで様々なヒトに支配されてきた→つまり、《恋人たち》の支配させられる存在がヒトである。


『ヒト』を何をもって定義するのか……。森博嗣のWシリーズに通ずるものがあって面白い。あれは人間とロボットの境界についてだったかな……。


メニー・メニー・シープに生きるヒト
救世群
海の一統
恋人たち
カルミアン
地球軍
ノルルスカイン
ミスチフ


多様すぎる人種?生物が登場しているからこそ、ラゴスがこれから導き出すであろう”答え”も10巻で期待したい。


それにしてもラゴスの「自分を何に支配させるのか」って台詞面白いよね。《恋人たち》の(ラゴスの?)特殊性を端的に示してる。


一般的に支配は、強者が弱者を”支配する”ものだけど、”自らを支配させる”って初めて聞いた。支配される側なのにも関わらず風格が明らかに弱者じゃないんだよなぁ…。


最後に

エランカたち政府
イサリやカドムたち
ミヒルたち救世群
恋人たち……
互いの思わくが絡みあうなか、太陽系艦隊、カルミアン星との接近がせまり

さらにはミスチフ、ノルルスカイン、そしてラストに出てきた謎の第三者…?

複雑すぎぃ!!
さぁ10巻読むぞ!!



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