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『まほり』の感想を好き勝手に語る。ゾクゾクの止まらない民俗学ミステリー【高田大介】


いや、それは偶然ですらない、むしろ一種の必然が彼らを呼び合わせていたのだ。なぜなら彼らは、それぞれの理由から、同じものを追いかけていたのだから。彼らが共通して追いかけてきたもの──それは蛇の目の紋である。

(引用:まほり〈上〉P244/高田大介)



文庫本発売を期に『まほり』を再読した。

前回は発売したばかりだったため、ネタバレしない範囲での感想だったので、今回はネタバレありで感想を語っていく。
前回の感想はコチラ。
【『まほり』感想】


目次

あらすじ

大学院進学を目指す裕は、卒業研究グループの飲み会で話されていた都市伝説に興味を引かれる。上州の某町では二重丸が描かれた紙がいたるところに貼られているという話だ。その町と出身地が近かった裕は、夏休みを利用して調査を開始。図書館で司書のアルバイトをしていた昔なじみの香織とフィールドワークを始め、少年から不穏な噂を聞く。山深い郷に、少女が監禁されているというのだが……。前代未聞の民俗学ミステリー!

(引用:まほり〈上〉 裏表紙)


感想

読み返した感想としては、やはり難しい……けど面白い!!!これにつきる。裕が調べている内容は理解が追いつかないが、内容を理解しきれないくても面白く見せられるのがすごい。知識があればもっと堪能できるだろうが……。


二重丸の意味
裕の母親について
そして、タイトルの『まほり』

ラストの衝撃たるやいなや……。


隠れていた真実が明らかになる瞬間が、どれも鳥肌モノだった。とくに『まほり』の謎が明らかされたときはゾッとしてページを進める手が止まったほど。コレをタイトルにするのか、という驚きと恐怖感。


あと恐怖感といえば、裕が聞く昔話も負けず劣らずで、あんな体験をしたらなかなかのトラウマになるだろう。高架下びっしりの二重丸とか想像しただけでおぞましい。言ってしまえば『二重丸が書かれた紙の群れ』ってだけなのだが、「実態はわからないけど、何か怖い。得体が知れなくて不気味」というのは具体的に形がハッキリしているモノの恐怖感より、よっぽどに質が悪いと思う。


私は『図書館の魔女』から著者を知り、『まほり』を読むに至ったのだが、そうするとやはり”言葉”については、ついつい注目してしまう。


前述したが、タイトルの『まほり』の意味を察する瞬間が物語の一つのポイントだ。その答えに辿りつく鍵が言語学で、”言葉”によって解き明かされるというのが、『まほり』の意味がわかったのと同じくらいゾクゾクした。偉そうな物言いになってしまうが、著者らしさが全開で、「これを求めていたんだ!!」という読者の期待に大いに答える形だと思う。


──裕の母親について

物語の最後で、裕が母親の形見として『義眼』を持っていたことが明かされる。


はっきりと名言はされないものの、母親が義眼だったことにより、名字が地名の毛利だったこと、両親が同じ戸籍に入ってなかった謎などの伏線が回収され、裕の母親が村出身で過去の”いち”だったことが自明の理となる。


だいぶ序盤だが裕の母親が目が悪く、足が悪いことも裕によって語られている。

「俺の母さんの旧姓が『琴平』というのかもしれない。家では『毛利』ということになっていたんだけど……」
香織は眼鏡の奥で目を細めた。
「ことになってた?」
「母さんの記憶はぼんやりしてる。体の弱い人だった。足も目も悪くてさ……」

(引用:まほり〈上〉P96)



裕の父親も今回の一件のように、いち(母親)を助け出したんだろうな……。



──備忘録と印象に残った所

以下、ネタバレしかない備忘録等。

「そうですねえ。大衆史なんて言うと偉そうですが、要するに大文字の『歴史』は為政者のもの、政つもの、統べるものの記録でしょう?それはその時代、その時代に起こっていたことの一端に過ぎないわけです。えてして記録を残すというのは政つもの、統べるものの特権でありますから……『残っていく歴史』にはどうしても死角が出来る。例えば歴史書を繙けば、そこにあるのは闘争、戦争の連続でしょう。一大事ですから、そうしたおおごとが史書に残るのは当然です。しかしそこで戦争をしていた時に、かしこでは戦争のことなんか知らないでいた者達もいたわけですよね。ここに史書に残るような出来事が起こっていた時に、あそこではそのことと縁もゆかりもなく暮らしていた人たちというのも必ずいるわけです。そういう世の大事に係わなかった者達のいたことは『歴史』ではなき、のでしょうかね?」

(引用:まほり〈上〉P135)

朝倉さんの話す『歴史』について。このあとの記録についての話なども一筋縄ではいかなくて面白い。


物語では朝倉さんと古賀さん、違ったタイプの二人のアドバイザーが要所要所で裕の手助けをしてくれるわけだが、彼らが語ってくれる内容が含蓄があってよい。古賀さんが解説してくれる『天命の飢饉』についてがなかなかに読んでいて辛かったなぁ……内容がヘビーすぎて。(上巻のP186〜210あたり)



──蛇の目について(上巻P260-)

・蛇の目は毛利神社の家紋
・琴平神社が毛利の伝承を預かっている。
・琴平宮が毛利末社から預かった斎忌風習が、蛇の目の護摩札を魔除け厄除けに要所に貼るという習慣



史料の伝在自体がすでに書いたものの底意、保存したものの意志の働きを帯びているということです。そしてそれを出来うる限り客観的な形で今日に読み解き、将来に向けて紹介伝承していこうとする我々史学者の営みもまた、同じくなんらかの底意、なんらかの意志の働きを免れえないということなんですよ。

(引用:まほり〈下〉P29-30)

古賀さんの伝承について。
このあたり読んでて、思わず『図書館の魔女』っぽいなぁと思ってしまった。このような内容を、マツリカ様がキリヒトに得意顔で解説してるのが目に浮かぶ。



およそ言葉というものは、欠けるにしても足されるにしても、形が変わるのに必ず動機を必要とする。なぜなら、放っておいたら勝手には変わらないというのが言葉のかなり重要な機能の一つだからだ。世の人が一般に信じているほどに言葉というものは闊達に変化したりなどしない。

(引用:まほり〈下〉P36)

”言葉”とは。



・説話が伝播していく主要な動因となる物語素は『性』と『暴力』と『差別』
(まほり〈上〉P38、〈下〉P80)


『由緒書上』の書き上げ自体が既に百年を遡行する時差を乗り越えて為されている……。史料には必ずこの二重の時差、すなわち「記録書き上げの時と読み解かれる時との間の時差」と「出来事と記録との間の時差」とが関わっている。

(引用:まほり〈下〉P88)
二重の時差……言われてみれば当たり前だけど、これを見るまで考えもしなかったな。

この岩塊の隘路を萎えた手足で必死に掴み、すでに片目しか開かぬその眼で霹靂を待ちながら、わずかな望みを懸けてまさに同じ岨道を辿っていった童女が三百年もの昔に居たことは、淳は知らない。自分の足下にどれだけの骨がうずまっていたのか、それを淳は知らなかった。この道筋を辿った者が、どれほどの「辿りえなかった者達」の怨嗟怨念を背負っていたのか、それを淳は知らなかった。

(引用:まほり〈下〉207)

ここ、一番好きなシーンかもしれない。


最後に

文庫本の上下合わせると、二重丸の中に目があるわけだが……これちょっとネタバレになっちゃう気がするんだよなぁ。『まほり』が『めほり』だとわかる瞬間の不気味感が薄まってしまうというか。




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