人間というのは、自分という存在を過去や先祖に立脚してイメージするものだ。生命というものの価値も、少なからずそういった思想に基づいているだろう。
(引用:私たちは生きているのか? P100)
Wシリーズの5作目、森博嗣の『私たちは生きているのか?』の感想を語っていく。ネタバレありなので未読の方はご注意を。
前回の感想はコチラ。
【『デボラ、眠っているのか?』感想】
目次
あらすじ
富の谷。「行ったが最後、誰も戻ってこない」と言われ、警察も立ち入らない閉ざされた場所。そこにフランスの博覧会から脱走したウォーカロンが潜んでいるという情報を得たハギリは、ウグイ、アネバネと共にアフリカ南端にあるその地を訪問した。
富の谷にある巨大な岩を穿って造られた地下都市で、ハギリらは新しい生のあり方を体験する。知性が提示する実在の物語。
(引用:私たちは生きているのか? 裏表紙/森博嗣)
感想
ついにWシリーズも折り返しの5作目『私たちは生きているのか?』。タイトル通り、『生きる』『生きている』とはどういった状態を指すのか?ハギリの考えが印象的だった一冊。とくに最後のデボラとの会話がとくに面白かった。
前作『デボラ、眠っているのか?』では、トランスファと呼ばれるAIがネットの世界で生きていたが、今回は更に一歩進んでウォーカロンが、更には人間が、躰を必要とせずネットの……バーチャルの世界で生きていけることを証明していた。着実に四季が予期した世界に変わっていくな……。
物語の中で今後、登場しそうな重要な事といえば『コンピュータの中で孵化する卵』の話。
富の谷の住人・フーリが話していたが、卵の漂流方法で「どんな鍵でも開けられる万能の鍵を持っている。コンピュータや、ネットの萌芽期からのもの」と言っていたが、前シリーズを読んでいればピンとくる方が多いだろうが、これは四季が持っていた技術……というか仕込んだものとしか考えられない。
また、卵といえば『デボラ、眠っているか?』で出てきたスーパ・コンピュータのテラがちょうど卵型のシェルに覆われていたのが記憶に新しいが……関係あるのかな。
──生命の定義
生きるとは何か?今作で大いに語られているところだが、気になったので少し調べてみた。
生物学的に考えられる生物の定義として、3つの条件があるらしく、それは、
①外界と膜で仕切られている。
②代謝(物質やエネルギーの流れ)を行う。
③自分の複製を作る。
以上の3つだそう。
いやはやなるほど、これまでは漠然と「へー、ウォーカロンとハギリたち人工細胞をいれた人間は子供ができないのかー」となんとなく受け入れていた事実だったが、現代の生物学の定義的には、それは生命の定義から外れているとなると……また話が変わってくるな。
ウォーカロンはまだしも、これではハギリたちもすでに生きていないということになる。
本書『私たちは生きているのか?』でも結局、生きることの定義というか、答えは提示されなかった訳だが……著者はこの問題にどのような答えをもっているのか……あかされるなら是非、拝見したいものだ。
──印象に残ったセリフ・名言
「自由への欲求が生まれるのは、どうしてでしょうか?」
「え?うーん、哲学的な質問だね。それはたぶん、生きていることが、その状況のベースにあると思う」
「生きていることが、ですか?」
「いや、しかし何をもって生きているのか、それがまた曖昧だ。むしろ逆かもしれない。自由を志向することが、現代では、生きていると表現される状況かもしれない」
(引用:私たちは生きているのか? P98)
人間というのは、自分という存在を過去や先祖に立脚してイメージするものだ。生命というものの価値も、少なからずそういった思想に基づいているだろう。
(引用:私たちは生きているのか? P100)
しかし、子供が生まれないことよりも、また、ウォーカロンが人間になれるかどうかということよりも、まさに人類が直面している問題とは、生命というものの概念なのだ。それは、長く問われなかったテーマだった。誰もが、普通に信じていた。自分たちは生きていると、なんの疑いもなく、誰もが胸を張って主張した。人の命はかけがいのないもの、この世で最も貴重なものだ、という信念によってすべてが進められてきた。だが、それは本当なのか、どうしてそんなことがいえるのか、という危うい境界にまで、我々の文明は到達してしまったのである。
(引用:私たちは生きているのか? P113-114)
哲学的すぎる。生きていることの再定義ね……。
生きているものだけが、自分が生きているかと問うのだ。
(引用:私たちは生きているのか? P262)
真理。
──今後、大事かもしれない備忘録
・卵のプログラム、ネット上で漂流し条件が合えば孵化する。孵化するとしだいに卵どうしが集まり、成長する。(P159)
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