小川一水の天冥の標シリーズ第4弾『天冥の標Ⅳ〈機械じかけの子息たち〉』の感想を語っていく。ネタバレありなので未読の方はご注意を。
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【『天冥の標Ⅲ』感想】
目次
感想
──全体を通して
前情報で「『天冥の標Ⅳ』は癖がつよいから読者を選ぶかもしれない」と聞いていたから、どんな展開がきてもいいように身構えていたつもりではいたが……これは予想外だった。
主人公たちの目指すところが究極の性行為である混爾〈マージ〉のため、物語のほとんどが性描写なのはド肝を抜かされた。しかしそれでいて、ただエロティックなだけでないというのも不思議で面白いところ。
こんなストーリーもありなんだな、と一つ勉強になった。
ラゴスの印象と仲間からの扱いが1巻とまるで違っていて困惑したけど、全部読み切ってからは納得した。ラゴス自身も言ってたけど、そりゃ4人も混ざればそうなるか。なにせキリアン、ラゴス、アウローラ、ゲルトルッドの異なりすぎる4人なわけだし。なによりそれを収めることができるラゴスの器のでかさよ。また1巻読み返したくなる。今読んだらラゴスの印象が変わりそう。
──救世群と《恋人たち》
救世群であり、恋人たちになってしまったキリアンが二つの集団の架け橋となった場面が一番印象的だったかもしれない。
アウレーリアなど変わり者が多く登場する天冥の標において、さらに特殊な立場にいる救世群と《恋人たち》。
冥王斑という、呪いにも似た目に見えない強い力に、三百年この方縛りつけられ、それを憎みつつも、それを含む血液をワクチン材料として売らねばならないのが、救世群だ。冥王斑と向き合うことを、生まれてから死ぬまで、無意識のレベルから強制されているのがキリアン自身だ。
そんなキリアンにとって、自分たちの生業の中心に『混爾』という正しいものを置き、理屈抜きでそれを求めていりれる《恋人たち》は息詰まるほどまぶしく感じられた。
(引用:天冥の標Ⅳ P276-277)
まったく違う立場にあると思っていた二つだが、似た境遇にあるとわかった場面ではなるほど……と思わずいられなかった。それと協力関係になれればいいのに……と。そう思ってたら物語の流れがその通りにいってくれて……。
「別じゃない、だってほぼ間違いなく、救世群の人々もきみと同じ不満を溜めこんでいるだから。三百年の孤独を強いられて出会いを求められているんだから。今のきみの過去の仲間をつなぐ共通の感覚というものがもしあるとすれば、それを措いて他にない。きみは《恋人たち》に受け入れられた。きっと救世群の人々も受け入れてもらえるだろう。ここに仲間がいる。二億キロ離れたところにいる人々に、他人を救おうと思わせる呼びかけが、これ以外にあるかい?」
(引用:天冥の標Ⅳ P446)
救世群同士を除いて、《恋人たち》が救世群と分け隔てなく接することができる唯一の仲間。それと300年の孤独を経てようやく巡り会えると!めでたしめでたし!!
で、終わりそうもないのが悲しいところ。
Ⅰで《恋人たち》はでてきているが、救世群がでてきていない。そもそもラゴスたちが何故〈メニー・メニー・シープ〉にいたのかわからないけど、救世群と共生していないことは明らかだった。
Ⅰで救世群に近い性質を持っているのは咀嚼者なわけだけど……咀嚼者と救世群……いや、変な詮索はやめよう。
──《恋人たち》の原点と『混爾』の正体とは?
《恋人たち》の原点の話で、ウルヴァーノが出てきたのは本当にびっくりした。ここでお前がでてくるんかい!と。Ⅲで確かに変わり者だとは感じていたけど、《恋人たち》の原点になるほどの大物だったとは思いもしなかった。
『混爾』は、哀れな《恋人たち》に授けられた、代替の神か。
それともこの概念には、まだ何か見極めるべき深みがあるのか。
われら、いまだ交わりを知らざるのか、否か。
(引用:天冥の標Ⅳ P520)
『混爾』とは何か?を探る事に物語の大半が割かれているが、結局決定的な答えが明かされないまま物語の幕は下りてしまった。とくにラストでは上記のP520の引用をはじめ、核心に触れそうな所はたくさんあった。
読中は「子供をつくること」が混爾なのでは?と思いながら読んでいたのだが、エピローグを読むかぎり、それは否定されているんだよなぁ……。
最後に
Ⅰ〜Ⅳまで読んで思ったのは、Ⅰ単体で読んでも面白かったけれど、Ⅰは伏線の塊だったんだなぁと思い知らされる。今回の《恋人たち》しかり、Ⅱでは救世群、Ⅲではアウレーリア。
これまでのⅡ〜Ⅳは、謂わばⅠで登場した主要人物たちの昔話。Ⅰより未来の話、または近い時間軸の話がこれからでてくるだろうが、それが楽しみでならない。
まったく関係ないかどアウローラ=オーロラ(Ⅰで登場した《恋人たち》)だと深読みしてたのは内緒。
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